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ブログ第七話 世界遺産となった日本の煙突
江戸時代の浮世絵や、古い民家を見ても煙突が見当たりません。幕末に日本を訪れた外国人が、日本の屋根には煙突が無いことを記述しており、囲炉裏の煙を茅葺屋根の燻蒸に使っていた伝統的な日本家屋には、煙突の概念は無かったのかも知れません。
実は、西欧式の煙突の導入はオランダの書物から得られた知見によって、反射炉の研究と建設から始まりました。江戸時代の後期になると、日本近海に外国船の出没が増えてきました。それに伴い西欧諸国の植民地政策などの情報も入り海防の必要性が問われるようになってきました。
外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い洋式砲が必要とされましたが、従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、外国式の融解炉が求められたのが反射炉建設の目的でした。
外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもあり、伊豆韮山代官の江川英龍、佐賀藩の鍋島直正などが、オランダの技術書(『鉄熕鋳鑑図』Ulrich Huguenin原著、金森建策訳)等を参考に作り始めたのが切っ掛けです。
江戸時代末期に、技術水準の差はあったものの同時期に伊豆国、江戸、佐賀藩、薩摩藩、水戸藩、鳥取藩、萩藩、島原藩など各地で反射炉が作られました。これらは幕府による伊豆国の韮山反射炉や江戸の滝野川反射炉を除き、主に幕藩体制の藩が中心となりましたが、鳥取藩では郷士で廻船業を営む武信家によって進められ、また島原藩では民間人の賀来惟熊によっても進められました。
反射炉は、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として正式登録されましたが、日本に現存する近世の反射炉は、アヘン戦争に危機感を覚えた韮山代官江川英龍が反射炉の建設を建議した韮山反射炉と萩反射炉のみとなります。残念ながら、薩摩の反射炉は薩英戦争でパーシュース号とハボック号の砲撃によって消失しています。その姿は現在、仙巌園で見る事が出来ます。
反射炉に必要とされた耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど、歴史の転換期に重要な役割を担いました。
又、反射炉の製造技術の導入が、日本史において特記されるのは、鉄製の大砲の製造が可能になったからです。当時、日本では青銅砲の段階で技術が停滞したままであった為、反射炉による鉄製砲の製造は、日本にとって鎖国下の技術停滞、開国による技術革新の象徴的な出来事でもあったからなのです。
明治期になると、面白いことに、古来から伝わる登窯にも煙突が利用されるようになりました。こちらは、日本に現存する登窯としては最大級で、傾斜角約17度、8つの焼成窯、高さの異なる10本の煙突が特徴的です。